葛布の歴史

葛布の歴史

 繊維の利用は大変古く、新石器時代には使われていたとされる。
「また、江蘇省呉県草鞋山(そうあいざん)遺跡の下層文化層(馬家浜ばかひん期、前4325年頃)からは、密度が10×13〜14の葛布、草縄を巻き付けた草束、・・・・・が発見された」

絹の東伝 布目順郎 p41 小学館ライブラリー*

写真:history of textile technology of ancient china P35より
cheng weiji science press newyork LTD

写真:history of textile technology of ancient china P35より
  cheng weiji   science press newyork LTD
 

 周代にはかなり用いられたようで孔子の論語の中でもたびたび出てくる。衣服に用いられるだけでなく、貴人と会う際の御簾としても葛布をつかっていたことも論語にでてくる。周=(中国古代の王朝。前12世紀末に、文王の子武王が殷(いん)を滅ぼして建国。都を鎬京(こうけい)に置き、封建体制をしき、華北中原を支配したが、第13代平王の時(前771年)西方の犬戎(けんじゅう)の攻略を受けて東遷し、都を洛邑(らくゆう)(洛陽)に移した。以後、王朝はしだいに衰微。前256年(一説に前249年)秦(しん)に滅ぼされた。東遷以前を西周、以後を東周といい、東周の約500年は春秋・戦国時代にあたる。)

 「論語に{紳士は・・・暑い盛りには練り葛 <糸希 糸谷 ちげき糸希は細緻な葛布、糸谷は粗い葛布をいう> の単衣(袗しん)を着、外出時には必ずさらに上着を着ける}郷党編  と述べ、墨子に{夏は葛衣の中衣(中)が軽くて涼しい}といっているのは、葛が夏季の衣料として好適なものであることをいったもので、周代に好んで用いられたことを表している」絹の東伝 布目順郎 p270 小学館ライブラリー

日本の葛布の歴史

 
 綿や麻が大陸から入ってくる以前の古代日本では、人々は身近にある植物の蔓や茎等から繊維を取り出し、それを編んだり織ったりすることによって布を作った。葛布もそんな布の一つであると思われる。粗妙(あらたえ)の一つであったかもしれない。
古墳時代前期 九州 太宰府 菖蒲が浦古墳で 鏡に付着した葛布が出土している。これが日本最古の葛布と云われている。

太宰府菖蒲が浦古墳の葛布


 
*万葉集には葛にまつわる和歌が数首見られる。
「おみなえし 咲き沢の辺の 真葛原 何時かも繰りて 我が衣に着む」
はその代表的なもので、葛が衣服の原料であったことが伺い知れる。
当時葛布は貴族の間では喪服や袴に用いられ、特に「けまり」の時には葛布で作った指貫(さしぬき~裾を紐でくくるようになっている袴)が用いられ、これは江戸時代まで続いたようである。(現代も使用されている。川出幸吉商店が納入)
 江戸時代、葛布は軽くて通気性が良く、また武士の好んだ直線が出せるところから、袴、裃、陣羽織、袴等に用いられた。 

当社所有の葛布道中着、裃。いずれも江戸時代後期

当社資料 袴、道中合羽参照

 しかし、明治維新後、武士の消滅と共に葛布の衣料としての需要は激減し、新たに襖・壁紙等インテリアの分野へと活路を見いだすことになる。葛布の襖は耐久年数が長いだけでなく、使い込むほど飴色の美しい艶が出てくることで今でも根強い人気がある。

大井川葛布のこと

 

昭和30年代の当社の葛布織り

静岡葛布(カップ)=現 静岡壁紙工業株式会社は、先代の父が昭和25年に起こした会社で、主に欧米へ向けて葛、マニラ麻、紙布、竹等で壁紙を製造していた。今もそのサンプルブックが残っているが、100%自然素材でできた壁紙はシンプルで実に美しい。遠州地方の金谷掛川地区はこのような輸出で成り立つ業者が多数存在し、当時一大産業を成していた。葛紵を作る、糸につぐる、賃機で織るという一連の作業は分業化されており、一つの会社を中心にこのような作業を行う家が点在していた。今でも「昔、うちのおばあちゃんがよく縁側に座って葛つぐりをやってたよ。」とか、「機を織る音が一日中聞こえていたよ。」等という昔を懐かしむ声をよく聞く。
 

昭和30年代の葛採り風景

しかし、オイルショックによるレートの変化などにより注文量が激減、葛の需要は次第に減っていき、輸出で成り立っていた多くの同業者は次々と転廃業していった。
 このように、ここ十数年間低迷を続けてきた葛布だが、平成7年父の死を契機に襖・壁紙以外にも広く使ってほしいと思い、大井川葛布と新たに命名、製品開発の準備を進めてきた。平成18年からは江戸時代の葛布の復元、研究をはじめ、失われた技術の再現をめざしている。

アメリカ、イタリア向け輸出壁紙の見本帳

大井川葛布年表

昭和25年 葛布製造をはじめる
昭和27年 有限会社静岡葛布(しずおかかっぷ)
平成8年
 大井川葛布ブランドを立ち上げる
平成9年   ギャラリーにて大井川葛布展開催
平成12年   染織α誌に4ページの記事にて紹介される
       ジャパンクリエーション2001(東京ビックサイト)出展
平成13年   松本クラフトフェア出展
平成13年   桐生織物参考資料館で個展
平成13年   「現代おり姫のころも展2001」 葛布服 村井良子、佳作入賞
平成13年  12月ジャパンクリエーション2002(東京ビックサイト)
       03年のトレンドとして葛布草木染めが取り上げられる。
平成13年  日本民芸館 改装に葛布納入
平成14年  2月東京ギフトショー出展(東京ビックサイト)
       5月松本クラフトフェア
平成15年  全国伝統的工芸品展 葛布帯 入選
       京都織成賞 葛布絣のれん 入選
平成16年  全国伝統的工芸品展 葛布着尺 入選
       自然布展 ぬの ぬの 主催
平成17年   日本民芸館展 葛布弁柄格子紋、藍格子紋 奨励賞受賞(遠州民芸協会出展)
       豊田市民芸館買い上げ
平成18年   大阪民芸館 改装に大井川葛布採用
       日本民芸館展 葛布格子紋帯地3部作 入選
平成19年   三大原始布展(高知)
        新宿OZONEインテリアセンターで3ヶ月間 特集展示
        オゾンセミナー「古の織りと染めを学ぶ」
        青山みとも「自然布展」出展
平成20年    古代織り展 参加

■遠州地方の葛布

静岡県の西部、遠州地方には昭和30年から40年代最盛期は40〜50軒の葛布工房があったが、その当時から残っているのは当社を含めて3軒である 
掛川 川出商店  明治から葛布を作っている老舗 
掛川 岡本葛布  最大規模の葛布工場だった。現在は遠州織りと称し草木布が主流
掛川 小崎葛布  昭和40年代 民芸葛布に移行後 参入 葛布 麻のシェード

■遠州以外の葛布

日本では鎌倉時代以降 掛川を中心に遠州地方で葛布が織られ、産地となっていたが
その他の地でも細々ながら 葛布は織られていた
1.鹿児島県 甑島 葛たなし  戦前まで織られていた。経緯とも葛 着物に用いた
2.佐賀県 唐津市 佐志 佐志葛布
 昭和40年ごろまで織られていた 経緯葛 蒸籠網 漁網など
現在 松尾鏡子さんが 継承している。
3.島根県の 山間部に昭和40年ごろまで 葛布を織っていた祖母がいたとの
 聞き取りを 松江でした。
4.琉球 中国に朝献のリストに 葛布の手巾(てぃーさーじ)がある。
5.香川県の五郷地区、新潟県の北蒲原郡などの記述がある
 その他 各地に個人レベルで葛布を織っているところがあるが、基本的に遠州地方の
方法を継承している。宮城野葛布の会 矢谷さちこさん 新潟の只見 松尾鏡子さん

◆海外の葛布

中国では唐の時代以降 葛布は商品として作られていないというが
海南島で葛布を見たという証言、海南島の向かいの海岸で作られているという情報がある。ラオスのフン族は葛で織物、編み物をしているようだ。朝鮮半島でも過去葛布は作られていたようだ。(NHK放送大学) 日本人が植民地時代に遠州葛布を教えて、戦後大産業となったが現在では残っていないと思われる。

■葛の紡績糸

 葛の繊維を取り出し 紡績糸として布を作ることは以前から行われていたようである。
中国では 食用葛を代用綿にした 記述があるし 熱帯葛 台湾葛などを 繊維に用いた記述がある。この場合 繊維を薬品で溶かし、綿状にし 紡いだようであるがさだかではない。Ko Hempと呼ばれている。
 最近 「通販生活」に葛布のパンツが紹介されたが 葛と綿の混紡である
 2000年ごろ奈良で 葛粉の廃棄物から繊維を取り出し繊維にしたが、その後の利用は確認していない。

■撚りかけの問題

遠州地方の葛布は経糸に 他の繊維を使い、緯糸に撚りを掛けない葛糸を使う。
経緯 撚りを掛けた葛布は西日本に散見されるので 撚りを掛けないことは、その後
遠州地方で考案されたことであろう。 葛の撚りを掛けないことで 輝く光沢をだし、そのため経糸に 絹、綿糸、麻などを比較的細い糸を用いたのだと思う。葛布機の構造も、ツグリの考案も全て光沢のためにあると思う。
 
 江戸時代中期以降の現存する葛布は全て上記の方法で作られたものである。
大蔵永常「製葛録」江戸時代後期 には葛糸に撚りを掛けている図があるが、とても疑問がある。